ここまでわかったいちはらの遺跡
特集 上総国分僧寺展 4
明かされた附属施設
展示風景 このブースでは、発見された国分寺の附属施設について解説しています。
 伽藍地の北側には、国師院(こくしいん)や政所院(まんどころいん)、修理院(すりいん)と思われる施設が確認されました。
 全国初の重要な発見です。
 国師院は国師(こくし)の政務の場です。
 国師は諸国の仏教指導のため、大宝2年(702)に置かれた僧官で、国分寺が完成すると、国府の仏舎(ぶっしゃ)から移動しました。
 延暦14年(795)には国師を講師(こうじ)と改め、講師院(こうじいん)となりました。
 政所院は寺の運営管理を行う役所的な施設で、建物の配置も官衙(かんが)風です。一般に大衆院(だいしゅういん)と呼ばれますが、上総国分寺の場合、食事などを賄う厨房施設の位地が明確でないため、これとは区別して「政所院」と呼んでいます。
 修理院の位地は明確ではありませんが、政所院の東側の施設から鉄滓(てっさい)類が高密度で出土しており、該当する可能性があります。
政所院運営期の上総国分僧寺
官衙風の政所院が置かれた段階
 III期(B期伽藍完成期)に登場した巨大な運営施設は、長期間維持されずに解体され、代わって役所的な施設が整備されました。
 これらは中心軸上に3棟の東西棟建物を並列させ、両翼に複数の南北棟建物を直列させる配置を取り、国府政庁(こくふせいちょう)を思わせます。
 このことから、政所院の跡であることは確実です。
 官衙(かんが)風の政所院は、760年前後から9世紀後葉ごろまで運営されたと思われ、この期間をIV期としました。
国師・講師院の発見
 国分寺の主要伽藍(しゅようがらん)が落成したころに建てられたと考えられます。
 国師院・講師院ともに、東西棟を南北に並列させる様式で、建物間を塀で塞ぎ、内庭にしていました。
 同様の例は、広島県の安芸国分寺跡でも確認されています。
 主要伽藍の中心軸線上に配置されているため、伽藍地の北門を開けると、正面に主要伽藍が連なるように望めたことでしょう。
 金堂院を正面に意識した、独立施設といえます。
 しかし9世紀後半になると、南北棟建物2棟による直列配置となり、正面を東に向けるようになります。
 金堂院重視から、政所院重視の配置に変わったようです。
 政所院の従属施設に編成変えしたのでしょうか。
 これは講師の政治的な位置づけや、執務形態の変化を示す可能性もあり、興味を引きます。
上総国分僧寺国師院前身施設 上総国分僧寺国師院01
上総国分僧寺国師院02 上総国分僧寺国師・講師院
上総国分僧寺講師院02 上総国分僧寺講師院か
上総国分僧寺講師院か 上総国分僧寺講師院終末期建物
政所院の完成と変遷
 政所院の成立によって、寺を運営管理するシステムが完成したといえます。
 建物の配列を国府政庁(こくふせいちょう)に習って理解すると、中央の建物が正殿(せいでん)で、その南が前殿(ぜんでん)、北が後殿(こうでん)、両翼が東西脇殿(わきでん)、ということになります。
 ただし正殿を含むほとんどの施設が地面に柱を直接立てた掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)なのに対し、図で「西脇殿1」とした建物のみが基壇(きだん)をともない、廂(ひさし)を構えるなど、規模・格式ともに正殿をしのぐ点で注意を要します。
 政所院の建物群は建て替えが繰り返されているため、施設として100年以上は維持されたことが分かります。
 主要伽藍が火災にあった可能性のある9世紀中葉から後半にかけては、設備が改編されたようです。しかしその後は徐々に衰退し、9世紀末頃には官衙的な配置を保てなくなります。
上総国分僧寺政所院01
上総国分僧寺政所院02
上総国分僧寺政所院03
上総国分僧寺政所院04
上総国分僧寺政所院終末期
政所院の変遷
 官衙的な政所院は、建物の建て替えなどから、5小期に細分できます。
 1小期から3小期までは、安定した形態の施設を徐々に拡大していった段階で、3小期が最盛期になります。
 4小期(9世紀後半ごろ)は景観が一変し、主要建物に廂を付けるようになります。
 これは講師院の変遷にも関連し、その頃焼失した主要伽藍の復興事業に対応するため、設備改編を行ったのかもしれません。
 5小期は施設の衰退期にあたります。
発見された遺物
須恵器
上総国分僧寺出土の新治産須恵器甕
常陸国新治(ひたちのくににいはり)産の須恵器
 上総国分僧寺の完成とともに、多くの什器も持ち込まれました。
 須恵器もその一つですが、杯(つき)・椀(わん)類などの小型品は、市内の永田・不入窯(ながった・ふにゅうよう)に発注したと思われます。しかし同窯では、大型品を量産していなかったため、甕・甑などは、遠く常陸国の新治郡で焼かれた品を搬入していました。
 上総国分僧寺で発見された新治の須恵器は、生産地一帯で出土する個体よりも出来が良く、良い製品を優先的に回してもらっているようです。
灰釉陶器
K90灰釉長頸瓶 NN32〜O10灰釉長頸瓶
灰釉長頸瓶(9世紀後葉)
 猿投窯の製品で、黒笹90号窯式にあたります。
 灰釉を体部に刷毛塗りした痕跡がよく残っています。
灰釉長頸瓶(8世紀後半)
 猿投窯の製品で、鳴海32号窯式から折戸10号窯式にあたります。頸部と胴部の接着に、3段接合の技法を用いています。
灰釉長頸瓶 原始灰釉小型壺
灰釉長頸瓶(9世紀)
 猿投窯の製品で、頸の付け根の径が大きいタイプ。
灰釉小型壺(8世紀後半〜9世紀初頭)
 猿投窯の製品で、原始灰釉と呼ばれるものです。
灰釉手付小瓶
灰釉手付小瓶(9世紀)
 猿投窯の製品と思われますが、美濃窯の光ヶ丘1号窯式の可能性もあります。
三彩陶器
奈良三彩薬壺
奈良三彩薬壺(8世紀)
緑釉陶器
緑釉陶器椀・皿類
緑釉陶器椀・皿類(9世紀) 猿投・近江・京などで焼かれたもの
初期貿易陶磁
越州窯青磁椀 けい州窯系白磁椀
越州窯系青磁椀(9世紀) けい州窯系白磁椀(9世紀)
施設をあらわす墨書銘
墨書「中院」 墨書「講院」
「中院」(9世紀中葉) 金堂院を指すか 荒久遺跡出土 「講院」(9世紀中〜後葉) 講師院を指す
墨書「講院」 墨書「講(院)」
「講院」(9世紀中〜後葉) 「講(院)」(9世紀中〜後葉)
墨書「東院」 墨書「東院」
「東院」(9世紀中〜後葉) 政所院を指す 「東院」(9世紀後葉)
墨書「東院」 墨書「東院」
「東院」(9世紀中〜後葉) 「東院」(9世紀中〜後葉)
墨書「西館」 墨書「経所」
「西館」(8世紀後半) 政所院内の庁屋か 「経所」(9世紀中〜後葉) 写経のための施設
墨書「綱所」 墨書「門」
「綱所」(9世紀中葉)
寺を取り仕切る役員の僧の執務所
「門」
貨幣
和同開珎(奈良時代) 関東地方での出土は稀