ここまでわかったいちはらの遺跡
特集 上総国分僧寺展 11
中世の復興
中世展示ブース
展示風景 このブースでは、上総国分寺の中世の復興から衰退までを解説します。

 文献史料から、12世紀に入っても上総国分僧寺の運営が続いていたことがわかります。
 寺院の東南部には方形に溝をめぐらせた墓、あるいは火葬跡が数基確認されていますので、寺僧の墓域と考えられますが、寺の活動を直接示す痕跡は見つかっておらず、寺自体は往時にくらべ、ずいぶん衰退していたのでしょう。
 一部の堂宇が細々と営まれている程度だったのではないでしょうか。

 しかし12世紀末ごろに様相が一変します。
 旧来の寺院地の東南部に、寺僧の墓域を取り込む形で、約93m四方の方形館が出現したのです。
 埋没していた寺院地外郭溝も掘り直されました。
 また、寺院地南辺中央に掘られた巨大な土採り穴は、大規模な土木事業を暗示しています。

 時は鎌倉幕府の成立期。
 旧来の伽藍地内に一定規模の伽藍が復興された可能性が高まってきました。
 実際に鎌倉幕府は、自らの支配地域である東海道諸国国分寺の修復を命じており、上総国分寺はその実例と理解できます。
中世初期の上総国分寺
 天仁2年(1109)、上総介藤原師保が国分寺丈六仏数体を造立し、正五位下に加階されています(『殿歴』)。
 国分寺の営繕が功績と認められていることから、政府も国分寺や定額寺の修繕を推奨していたことがわかります。
 しかしこのころの国司は、公私ともに任国の支配を任された存在でした。
 寺の修繕も恣意的なものと思われ、これをもって直ちに安定した運営に結びつけることはできません。
 その後、大治4年(1129)には上総国分寺の講師だった僧平明が亡くなっており(『後拾遺往生伝』)、上総国分僧寺がそのころまで存続していたことは確認できます。

 しかし発掘調査で10世紀以降の講師院は発見されていません。
 伽藍地内に居を移したのか、ほかの定額寺や国衙に移動した可能性もあります。

 いずれにせよ寺院活動の低迷期と思われます。
上総国分僧寺塔跡
中世前期の復興と東南部館
 鎌倉幕府の草創期ごろ、上総国分寺の大規模復興の可能性を示す痕跡が発見されました。
 ただし伽藍本体は確認されていません。
 旧寺院地東部に営まれた方形館は、寺僧の館と考えられます。
 ここでは多量のカワラケが消費されており、館が寺社関連施設だった可能性を高めています。
 また、中国から輸入した高級陶磁器の発見は、館主の権威の高さを物語ります。

 鎌倉前期、上総国の検注使が記した「覚隆書状」(『中右記紙背文書』)によると、上総国分寺は4・50町の寺田を持ち、国衙から国府八幡宮にならぶ減免措置を受け得るよう優遇されていたことがわかります。
 後世の史料もあわせ考えると、中世国分寺の経済基盤のルーツは国衙領に求められ、寺の復興自体が国衙機構を通じて行われた可能性を示します。
中世の上総国分僧寺
中世復興国分寺の運営段階(12世紀末から14世紀中葉)
 かつての伽藍地の東南部と、神門古墳群に接する殿屋敷地区に、立派な主殿をもつ方形館が造られています。
 恐らく寺僧の館で、平安時代末から鎌倉時代初頭ころに東南部館が成立し、鎌倉時代後半ごろ、殿屋敷地区に移転したのではないか、と考えられます。
 中世の復興伽藍は未発見ですが、旧来の伽藍地のなかに展開するのでしょう。
中世初期の採土跡
巨大な土採り跡
 旧寺院地の南部に巨大な穴が掘られた。
 中世前期の遺物が混じることから、鎌倉時代を通じ、埋まりきらずに開口していたものと思われる。
 伽藍復興時に用土を採掘した跡である可能性が高い。
源頼朝と上総国分僧寺
源頼朝と国分寺復興
 総国分寺たる東大寺を含む南都は、治承・寿永の内乱(源平の争乱)で焼失してしまう。
 鎌倉に武家政権を開いた源頼朝は南都復興事業に協力し、国家的プロジェクトとして進行した。
 同時に東海道諸国国分寺の復興にも着手したようだ。
 頼朝の知行国であった上総は、その好例と言えようか。
金剛力士像(市指定 宗教法人国分寺蔵)

 現在の国分寺仁王門に安置されている仁王像2躯のうちの阿形像である。
 13世紀後半(鎌倉後期)の作で、寄木造。
 中世に上総国分寺の伽藍が存在した証拠の一つとして、歴史的にも重要な資料である。
国分寺の金剛力士像
青磁酒会壺
 僧寺跡の東に隣接する荒久遺跡から出土したもので、小片であるが、かつては僧寺の備品だったことは明かである。
 14世紀、中国浙江省の龍泉窯で焼かれた青磁の高級品。
 よく知られている金沢称名寺の出土品と同型である。

 青磁酒会壺は、格式ある寺院のステイタスシンボルだったと考えられる。
上総国分僧寺の酒会壺
上総国分僧寺の三彩洗
三彩牡丹文洗
 洗(せん)とは、洗顔などの用途で作られた鉢のこと。
 国分寺で出土した種類は、13世紀ごろ中国南部で焼かれたもので、当時の都や大宰府、鎌倉など、極めて限られた地域でしか発見されない高級品である。
 京都醍醐寺では、同型の鉢を宝器として伝世し、雨乞いの際に利用している。
 上総国分寺でも宝器として、特別な行事に用いたのだろう。
白磁皿・椀 滑石製石鍋
白磁椀・皿(12・13世紀) 滑石製石鍋(13世紀)
伊勢型鍋 中世の火鉢
伊勢型鍋(12世紀) 産地不明b器 火鉢(14・15世紀)
瀬戸・美濃系天目茶碗 渥美系陶器
瀬戸・美濃系天目茶碗(14世紀) 渥美産陶器(12・13世紀)
中世の瀬戸・美濃系陶器
瀬戸・美濃系陶器
渥美産山茶碗
渥美産山茶碗(12・13世紀)
常滑産陶器
常滑産陶器(13・14世紀)
カワラケ(小皿)
カワラケ(小皿・12から14世紀)
カワラケ(杯) 金銅製小仏像
カワラケ(杯・12から14世紀) 金銅製小仏像(中世 鎌倉時代か)
鎮護国家の終焉
 鎌倉時代後期ごろ、方形館は寺院地南西隅の殿屋敷地区に移転しました。
 当時、聖域とされていた神門古墳群の隣をあえて選んだのでしょう。
 同様の立地を取る寺社館跡は、市内の片又木遺跡でも確認されています。

 殿屋敷地区の館は14世紀後葉頃まで維持され、やがて廃絶したようです。
 応永7年(1400)の「武家伝奏広橋兼宣奉書」・年未詳「某書状」(『大乗院文書』・『金沢文庫文書』)によると、上総国分寺領は国衙正税地で、鎌倉の円覚寺が国衙から年貢納入を請け負っており、円覚寺と国衙が争っていたことがわかります。
 地頭による請所の押領は社会現象となっており、国衙支配の実体は失われつつありました。

 中世の上総国分寺も、国衙支配の衰退と運命を共にする立場にあったのです。
円覚寺舎利殿
鎌倉円覚寺
南大広遺跡 蕨手刀