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上総国市原八幡宮別当職事、任去月十七日御教書并京都御施行之旨、村上式部大夫入道相共莅彼所、沙汰付下地於地蔵院僧正御房雑掌慶尊候訖、仍渡状如件、
観応二年七月十六日 源(武田)資嗣(花押)
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史料4 観応2年(1351)「村上源清打渡状」 『宝菩提院文書』 (『尊経閣古文書纂』)(注5) |
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上総国市原八幡宮別当職事、任去月十七日御教書并京都御施行旨、武田七郎三郎(資嗣)相共莅彼所、沙汰付下地於地蔵院僧正房雑掌慶尊候畢、仍渡候状如件、
観応二年七月十六日 沙弥源清(村上)(花押)
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遵行使は近隣の有力国人と思われる武田・村上氏で、「去月十七日御教書并京都御施行之旨」に任せ、市原八幡宮別当職に関する下地を地蔵院雑掌慶尊に打渡したものです。
まず、打渡の対象が「下地」と明記されていることから、市原八幡宮別当職が、その社領と同義的に扱われていたことを確認できます。
さて、ここで市原八幡宮社領は地蔵院雑掌に強制返付されたはずなのですが、被告側の抵抗は根深く、翌年には再び使節遵行が命ぜられます(史料5)。
史料5 観応3年(1352)9月14日「将軍足利尊氏御判御教書写」 『観智院金剛蔵聖教目録』 (注30)
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等持院殿(足利尊氏)
地蔵院僧正坊雑掌申、上総国市原八幡宮別当職事、供僧等就申子細、先日雖遣奉書自鎌倉殿被下書札之上、雑掌所申有其謂之間、厳密停止供僧等之違乱、打渡下地お雑掌可被全所務之状、如件、
観応三年九月十四日 御判
千葉介(氏胤)殿
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この史料から、社領の押領が「供僧等」による仕業であることが分かります。
後に述べたいと思いますが、市原八幡宮は別当寺を含め相当規模の基盤を有し、多くの社僧が活動拠点としていたと容易に推察されます。市原八幡宮側は、有力な供僧らが連合し、新興勢力である醍醐寺地蔵院の雑掌の入部に妨害を加えていたものと思います。
これに対し幕府は、上総守護だった千葉氏胤に命じ、再び使節遵行による強制執行が行われたようです。
しかし抵抗運動は終息せず、文和3年(1354)、再び尊氏は上総守護千葉氏胤に使節遵行を命じることになります(史料6)。
地元の勢力が幕府の補任方針にここまで抵抗しえた事実は、観応の擾乱による政界の混乱が背景にあったことでしょうが、彼らを後援する権威の存在も見逃せません。
その具体像として、地蔵院覚雄以前に市原八幡宮別当だった明円なる僧の存在が、次の史料6から判明します。
史料6 文和3年(1354)2月5日「将軍足利尊氏御判御教書写」 『観智院金剛蔵聖教目録』(注30)
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等持院殿(足利尊氏)
地蔵院僧正坊申、上総国市原八幡宮領市原庄事、先別当明円致押領之由、歎申、急速可被打渡也、
文和三
二月五日 御判
千葉介(氏胤)殿
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醍醐寺地蔵院に対する在地社僧の抵抗が大きかった理由として、市原荘内に鶴岡八幡宮の勢力が浸透して久しかったことが容易に想定できます。醍醐寺勢力への別当職補任は、在地僧官たちにとって、自己の没落に結びつくと認識されたのでしょう。
明円の素性は不明ですが、在地社僧らの支援を受け、抵抗運動の中核と見なされていることから、彼らの政治利害を代表しうる立場にあったことが推察されます。よって、鶴岡八幡宮の供僧だった可能性が高いのではないでしょうか。
明円の名は『鶴岡八幡宮寺社務職次第』(注1)に見えませんが、この抵抗事件で敗北したため、「重科之仁」(史料7)として政治生命を断たれ、鶴岡八幡宮附属坊の当主などに補任されることもなく、社務職の記載から漏れたのかもしれません。
とにかくここで再び守護勢力による強制返付が行われ、ようやく醍醐寺地蔵院覚雄は市原八幡宮領の実質的な知行を行えるようになります。
史料7 文和3年(1354)7月28日「足利義詮御判御教書写」 『観智院金剛蔵聖教目録』(注5) |
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上総国市原八幡宮別当職・同社領市原庄地頭職事、地蔵院僧正当知行無相違上者、不可有異儀者歟、於先別当明円者為重科之仁之間、非沙汰之限哉、恐々謹言、
文和三
七月廿八日 義ー御判
左馬頭(足利基氏)殿
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さて、上記の相論の経緯をまとめると、次のようになります。
観応元年(1350)、明円(鶴岡八幡宮供僧か)に替わって醍醐寺地蔵院覚雄が市原八幡宮別当職を得ましたが、在地社僧たちの支持を得た明円の強い抵抗があり、雑掌を派遣しても知行が困難な状態でした。
覚雄はこれを幕府に訴え、市原荘付近に勢力を持つ国人領主武田・村上氏が守護使節として地蔵院雑掌慶尊を伴い下地を打渡しました。
しかし現地の抵抗は根強く、観応3年(1352)と文和3年(1354)にも使節遵行による強制執行が行われた結果、補任から4年を経て、ようやく地蔵院による別当領の安定した知行が実現しました。
さて、この「京都御施行」(史料3・4)から、幕府の荘園政策の一面を垣間見ることができます。
この頃の幕府は、寺社領・本所領の一円化を図り、本所領内部に武家被官の知行地が含まれる場合、それを本所側に返付させています。
具体策として康永2年(1343)4月29日の幕府追加法が知られ、井原今朝男氏が寺社領本所領内部再編の動向として取り上げられています。
法令の内容は、武家被官が寺社本所の「請所」と号し、あるいは代官請負契約を成したと称して押領することを禁止し、本所雑掌に所領を引き渡すべく定めたものです。
さらに観応2年には追加法五五条Iが制定され、これに従わない武家被官への罰則規定が強化されています(注31)。
ちなみに史料5と同日付けで地蔵院覚雄宛に発給された足利尊氏の御教書(注32)に、上総国市原八幡宮別当職と並記した「社領市原庄地頭職」の割注として「長崎下野入道跡」と見え、それまでの市原八幡宮社領の権益が、幕府勤仕僧の別当職と、武家領主の地頭職に重層的に分割されていた状況が見て取れます。
観応期の市原八幡宮別当領をめぐる相論の過程で、上記の幕府政策を背景に武家被官の関与が淘汰され、市原荘内における市原八幡宮別当職権益が一円所領として確定する画期になったと思われます。
A応安4年の相論
応安4年(1371)、地蔵院法印道快が管理する「市原八幡宮社務職・同社領等」が石川左近将監の違乱を受け、神事の違乱に及びました。
道快雑掌の訴えを受けた幕府は、管領細川頼之の奉書を関東管領上杉能憲宛に下し、所職・社領は「全雑掌之所務」として、社殿造営は先度通達したとおり沙汰するよう命じています(史料8)。
史料8 応安4年(1371)「室町幕府管領細川頼之奉書」 『前田家所蔵文書 実相院及東寺宝菩提院文書』(注7)
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地蔵院法印(道快)雑掌申、上総国市原八幡宮社務職・同社領等事、石川左近将監致違乱之間、神事及闕怠云々、太不可然候、所詮於所職・社領者、全雑掌之所務、至造営国役庄役差別、同造畢有無注進者、先度被申訖、彼是事行之様、可有其沙汰之状、依仰執達如件、
應安四年九月十二日 武藏守(細川頼之)(花押)
上椙兵部少輔入道(能憲)殿
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結果、翌応安5年(1372)8月22日には下地遵行が実施され、左近将監朝藤が「清浄光院法印御房」の代官へ強制返付しました(史料9)。
史料9 応安5年(1372)「朝藤打渡状」 『前田家所蔵文書 実相院及東寺宝菩提院文書』(注7)
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市原庄事、任被仰出之旨、沙汰付下地於清浄光院法印御房代候畢、仍渡状如件、
應安五年八月廿二日 左近將監朝藤(花押)
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まず訴人の問題について触れてみましょう。
応安4年の奉書(史料8)では地蔵院法印(道快)が訴人側の中核と捉えられますが、翌年実際に守護使節に伴われ下地の返付を受けたのは清浄光院御房の代官です(史料9)。
高村 隆氏はこの点に注目され、市原八幡宮別当職が応安5年を境に地蔵院から清浄光院へ移ったとし(注33)、小川 信氏は清浄光院法印も道快を指すものと推測されています(注8)。
先に述べたように清浄光院は親玄流の相承対象として確認できるので(表1)、小川氏の推測が正しいと判断されます。
相論は道快側の訴えに幕府が応えたことで局面が動き、道快代官への下地返付で決着したのです。
これに対し、訴えを受けた論人は石川左近将監ですが、興味深いのは下地返付の打渡状を発給した「左近将監朝藤」が石川左近将監その人と見なせることです。
論人自らが訴人側に打渡を実施したことになり、一般的な押領の強制返付とは異なる背景、守護による公権的な介入に絡むものではないでしょうか。
石川左近将監は永和2年(1376)、円覚寺造営の棟別銭徴収に関する守護使として、上総守護職上杉朝宗から遵行状を得ており、当時の上総守護代であったことが分かります(注34)。
守護権力による市原荘の権益搾取(市原八幡宮別当職の職務遂行と社領の権益の侵害)が行われていた点は重要です。
この時期は、応安半済令として知られる応安元年(1368)6月17日の追加法により、室町幕府における荘園政策の完成期と評価されていますが(注31)、応安4年(1371)の市原八幡宮社領をめぐる相論も幕府政策に関連する可能性があります。
応安大法は「禁裏仙洞御料所・寺社一円仏神領」・「本所一円知行地」に対し半済令を除外し、「諸国本所領」では下地を本所に返還し、寺社・武家領の両立をはかるものでした。
村井章介氏は、応安大法における「本所一円知行地」を「義詮の時代から半済や預け置きなどをまぬがれて本所が現実に知行してきた所領」であることを明確にされています(注35)。
市原八幡宮の社領は、いわゆる寺社本所領として捉えられるものですが、先述のとおり観応期の争論を経て醍醐寺地蔵院の一円領として確定していらい、「市原別当職者非相論職」(注20)と称されたように、応安大法で示すところの「本所一円知行地」として公認されていたのではないでしょうか。しかし在地では、守護代が市原荘内における地蔵院一円知行地に対しても、応安大法における本所領保護の適用外として、実力介入したのかもしれません。
あるいは高村・小川両氏が指摘されるように、郡課役・一国平均課役に結びつく国衙機構掌握の試みがあったのかもしれません。
この事態に対し、幕府は本所領保護の立場から、応安大法に基づき、関東管領宛てに御教書を発給、守護使節に醍醐寺清浄光院の使者を添え、強制返付したのではないでしょうか。
これらは推測にすぎませんが、相論に対する守護側の論理は理解しやすくなります。
少なくともこれらの相論は、幕府荘園政策の中で理解される必要があると思います。
5 市原八幡宮別当職の性質について
観応元年(1350)室町幕府執事高師直奉書(史料1)によると、市原八幡宮別当職の補任に「当寺并寺領」が付属したことが分かります。
この後、観応2年の相論(史料3・4)で地蔵院雑掌慶尊に打渡された「下地」とは奉書の「寺領」(社領)を指すものです。
別当職への補任は、雑掌の活動本拠たる市原八幡宮とならび、その社領も交付されたことを示しますが、幕府側の言う「社領」とは、先に述べたように一連の荘園政策から別当職の権益を所領化し、寺社本所領として確定した部分を示すと考えられ、必ずしも市原八幡宮の全所領と捉える必要はありません。
市原八幡宮別当職権益の所領化については、幕府の保護で観応期の相論過程で確定したものでした。
観応期は寺社別当職の権益が所領として編成された一つの画期と見られます。
例えば貞治3年(1364)、覚雄の下総国小見郷における地頭職が飫富社の別当職に立替られており、この頃の鎮守社別当職が、所領につり合った権益と認識されていたことを示しています。恐らくこれ以降の「別当職」は、付属領を進止する権益としての用例が増えるものと思われますが、別当職が本所側にとって完全に権益化したわけではありません。
留意すべきは市原荘における応安4年(1371)の相論で、幕府が奉書を発給する形で介入し、所職・社領すべてを「雑掌所務」に帰することと、社殿造営を併記し命じています(史料8)。
これは訴人道快の主張が、下地における守護権力の介入を社殿造営の妨げと見なすものであり、裏返せば道快が市原八幡宮別当として社殿造営の責務を負っていたことを示しています。
このことから、寺社別当職は単に社領からの得分を示す権益の代名詞に止まらず、それなりの責務を伴ったことが確認できます。
道快は応安元年(1368)12月1日に覚雄から醍醐寺座主職と上総国内の所領を(史料10)、同2年(1369)6月8日には管領する院家(地蔵院・清浄光院・宝蓮院)や本尊・聖教類、所職を譲与されており(史料11)、直後に幕府の安堵を得たと推測されるので、造営の実施は応安2年に決定したと考えられます。
史料10 応安元年(1368)「覚雄譲状」 『正嫡相承秘書』 二七丁(注36)
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於附法状并座主職譲与之状者、以久我大納言殿被書之訖、於判形者、先師僧正自筆也
譲与
醍醐寺座主職事
右、座主職者、為師資相承之職譲附来者也、仍為附法嫡弟之間、代々證文等悉以令譲与道快法印者也、早申立所存可被拜補之状如件、
應安元年十二月一日
前大僧正在判
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史料11 応安2年(1369)「覚雄譲状」 『正嫡相承秘書』 二七丁(注36) |
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譲与
一仏舎利并重宝等目録在判
一秘仏秘曼陀羅以下本尊数百鋪目録在別
一台皮子四合以下聖教数百合目録在別
一院家所職等譲与状在別
右、本尊聖教霊宝等者、正嫡相承之宝物師資傳来之印璽也、是則四海鎮護之舟 一流傳領之管轄也、而祖師親快法印時、三宝院経庫并遍智院経蔵之聖教、本尊、道具重宝等、悉以被運渡、于地蔵院庫蔵訖 降令相続管領者也、就中宗大事秘法大法等、口伝不貽一事為嫡弟之間、令伝附道快法印者也、仍為鄭重染燕弗之状如件、
應安二年六月八日
前大僧正在判
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道快は市原八幡宮社殿大規模造営の遂行を期待されたわけであり、その財力・実務面ともに評価せねばなりません。
社殿造営は道快にとっても重要な課題であり、応永期まで棟別銭徴収の活動が追えます(史料14)。
以上、市原八幡宮の別当職について俯瞰しました。
これを権門寺社が有する東国寺社別当職一般の傾向として捉え、以下にまとめを記したいと思います。
鎌倉時代後期に成立した寺社別当職の継続と補任は、政治的には得宗以来の寺社政策を足利幕府が引き継いだものとして評価できます。
これに付属する権益は次第に一円知行権へと変化し、観応期には幕府の荘園政策に裏打ちされ、寺社本所領として確定したものと思われます。
しかし畿内寺社による下地の保全は容易なことではなく、押領に対し幕府からの施行による強制返付が機能しなければ維持できませんでした。
それでも14世紀後葉は所領として安定期にあったと思われます。
「別当職」は地頭職との交換対象になるなど、領主権益を示す代名詞として度々用いられるようになりますが、荘園内に一定の実務を要求されました。社殿造営は別当職の大きな責務でした。
実務・所領管理には雑掌が下向しており、別当職に由来する鎮守社を活動拠点にしたと考えられます。
6 応安・応永期の市原八幡宮造営について
応安から応永期にかけて、大規模な市原八幡宮造営の動きが確認できます。
この造営の初見史料は応安4年(1371)9月12日「室町幕府管領細川頼之奉書」(史料8)です。
市原荘内の相論に対し、市原八幡宮の所職・社領は地蔵院雑掌の所務とした上で、先度通達した通り造営を進めよと命じており、以前から造営計画が策定されていたこと、応安4年までに国役・庄役の注進状に基づく造営費用徴収が試みられていたことが分かります。
造営計画は道快が覚雄から市原八幡宮別当職を譲与された応安2年(1369)に遡及する可能性が濃厚で(史料11)、その実施が道快の責務と推測し得ることは先述の通りです。
応安4年(1371)「奉書」(史料8)では、国役・庄役注進状の内訳までは記されていませんが、後述する応安8年(1375)「上総国市原八幡国役庄役注進状」(史料12)とおおむね合致するでしょうから、庄役・一国平均課役・郡課役・五箇国棟別銭によったと思われます。
これらの徴収は守護代の「違乱」のため行き詰まり、幕府の施行(史料8)から守護代の打渡(史料9)で一応決着がつきました。
このように見ると、応安4年(1371)の相論は造営の課役徴収に対する抵抗が大きな理由として指摘できます。
これらの課役は小川氏が指摘されるように守護権力の協力が不可欠であり、守護代が違乱の当事者たる事態は早急に打開すべきものでした。
しかし守護代が違乱を停止し、押領されていた市原八幡宮社領の返付を受けた応安5年(1372)8月22日以降においても、造営を実施するだけの費用徴収は進まなかったようで、応安8年(1375)2月10日付けで新たに「上総国市原八幡国役庄役注進状」(『三宝院文書』(史料12)が作成されたのです。
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史料12 応安8年(1375)「上総国市原八幡国役庄役注進状」 『三宝院文書』(注7) |
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注進
上総国市原八幡宮国役庄役事
国役分
御宝殿一宇三間 一国平均課役
御神輿宿一宇三間 馬野郡 海北郡
左右六所宮二宇各三間
一所山辺南郡 山辺北郡
□□(一所カ)武射南郡 武射北郡
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
御宮殿三基 一国平均課役
内廻廊三十六間 同前
正面鳥居 同前
中門一宇三間 玉垣 井垣
刑部郡 佐是郡 長南郡 長北郡 埴生郡
已上五箇郡課役
左右塀屋二宇各五間
市東郡 市西郡
大門一宇 山田郡 望東郡 与宇呂保
常行三昧堂一宇三間四面 五箇国棟別□(銭カ)
・・・・・・・・(この間他の文書一紙あり 飛あるか)・・・・・・・・
庄役分
御副殿一宇三間
御拝殿一宇五間二面
若宮御殿一宇三間
宇佐宮一宇
□□(内)宮一宇
地主宮一宇
今宮一宇
□呂宇戸宮一宇
高良宮一宇
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上若宮分
御神宝殿一宇三間
武内宮一宇
高良宮一宇
地主宮一宇
小社四所
御副殿一宇三間
御庁一宇
本堂一宇
南経所
北経所
・・・・・・・・(この間脱落あるか)・・・・・・・・
竃神殿一宇五間
左右善神□
後門鳥居
志多羅宮一宇
松童宮一宇
阿蘇十二所宮一宇
若王子宮一宇
住吉宮一宇
大将軍宮一宇
外松童宮一宇
一切経蔵一宇三間
宝蔵一宇三間
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江日須宮一宇
貴船宮一宇
三郎殿宮一宇
右注進之状如件、
應安八年二月十日 □(盛カ)□
執行
□□□
若宮神主
高□(朝カ)(花押)
八幡神□
[ ]
[ ]
頼円(花押)
[ ]
[ ]
[ ]
源栄(花押)
[ ]
賢俊
[ ]
□ ]
[ ]
實 ]
・・・・・・・・(別に次の一紙あるも挿入個所不明)・・・・・・・・
外廻廊三十二間
御膳殿一宇五間二面
法華三昧堂二宇
講堂一宇四間二面
道場一宇一間四面
鐘楼一宇三間
白幡堂一宇
天神宮一宇
大食堂(宇欠カ)一十三三間
大舞台
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この史料によると、「上総国市原八幡宮」たる造営の対象として、市原八幡宮本体と、これに付属する「上若宮」社が挙げられています。
上若宮社は、規模表記が省略されている建物が多く(表2 A)、市原八幡宮本体より相当小規模だったのでしょう。しかし本堂や副殿、御庁、経所など一定の建物構成を示し、独立した敷地を有した可能性があります。 |