鎌倉後期〜戦国時代 | 台遺跡 だい | |
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海岸平野を見下ろす台地上にあり、切り土整地と溝による区画面を取りまくように多数の地下式坑が展開していました。遺跡は西谷古墳群の存在から聖地視されていたようで、すでに中世前期には常滑6b型式の大甕を蔵骨器とした墓が営まれています(甕棺3)。このような空間意識は戦国期まで維持され、西谷124号墳を供養塚に転用し、蔵骨器として10型式の常滑大甕が埋められていました。遺跡が鎌倉後期から戦国期にかけての墓域であることは間違いありません。しかし地下式坑を伴う区画については、葬送空間とする説(半田1998)、農作物の収蔵とその流通拠点と評価する説(笹生2003)などがあります。この問題は地下式坑の用途がある程度解明されるか、発掘データの整理が進まないことには、明確な判断ができない状況にあります。 出土遺物は古瀬戸後期様式期に中心があるようで、白磁水注のような高級品も若干混じります。鎌倉で出土するような滑石製石鍋などもあり、注目されます。大変貴重な遺跡であるため、整理報告が待たれるところです。 「本邦地下式壙の類型学的研究」 半田堅三 『伊知波良 2』 伊知波良刊行会編 1979年 所収 『上総国分寺台発掘調査概報』 上総国分寺台遺跡調査団 1982年 「地下式壙再考−市原市台遺跡中世遺構の分析−」 半田堅三 『市原市文化財センター研究紀要II』 (財)市原市文化財センター編 1993年 所収 『千葉県の歴史 資料編 中世1』 (財)千葉県史料研究財団編 1998年 『市原の城』 小高春雄 1999年 「地下式坑の掘られた風景」 笹生 衛 2003年 『戦国時代の考古学』 高志書院 所収 |
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