村田川中流域北岸、標高35m前後の台地上にあります。台地の縁には延慶2年(1308)銘、元亨2年(1322)銘を含む板碑群を立て並べた塚と、これに付随するような小型の掘立柱建物跡のブロックがありました。そしてその奥には地下式坑や土壙墓、火葬遺構などからなるブロックが展開しています。塚は古墳を改変したものと見られ、渥美産陶器の壺や常滑産陶器6型式の片口鉢、甕カワラケなどが出土しており、板碑造立期に近いものです。その他のブロックからは常滑7〜9型式、古瀬戸後期様式期の遺物が中心のようです。
鎌倉後期、台地麓には恐らく村落の発展が進みはじめており、背後の景勝地たる古墳群を聖地視したのでしょう。居住域を見下ろす場所の古墳を改変、供養塚とし、板碑や供養・礼拝堂を造立したものと思われます。造立の中心になったのは村落の富豪百姓か在地領主か解りませんが、村落内の有力者であったものと思います。このブロックにおける聖地的意味合いは恐らく中世後期まで生き続け、室町期以降は村落構成員全体に解放されたのではないでしょうか。15世紀には台地上の開墾・裸地化も相まって、土壙墓や火葬土坑が展開する葬送空間が広く営まれたものと推測します。
『千原台ニュータウンVI−草刈六之台遺跡−』(財)千葉県文化財センター 1994年
『千葉県の歴史』資料編 中世1 (財)千葉県史料研究財団編 1998年 |