遺跡の深層
45 菊間遺跡群の補修された銅釧 小川 浩一
遺跡所在地:菊間
時代:弥生時代後期
 菊間古墳群に所在する東関山古墳の前方部周辺調査区において、1800年ほどの眠りを経て、弥生時代の青銅製の腕輪が出土しました。
 縄文時代以来、貝の腕輪「貝輪(かいわ)」を作る伝統が続きますが、弥生時代後期になると、銅で作られた腕輪である「銅釧どうくしろ」が作られるようになります。ちなみに、つづく古墳時代には、碧玉(へきぎょく)などの石で作られた「車輪石」や「鍬形石(くわがたいし)」と呼ばれる非実用品や、腕輪の周りに鈴が付けられた「鈴釧」が登場するなど、材質及び形状が多様性に富んでいきます。

 菊間遺跡群で見つかった腕輪は、「帯状円環型銅釧(おびじょうえんかんがたどうくしろ)」と呼ばれる、薄い青銅の板を丸い輪のかたちに鋳造したものです。弥生時代後期(2世紀頃)の土坑墓((どこうぼ)穴として掘られた墓)から出土しました。出土場所が腕の位置だとすると、被葬者は頭を北西方向に向けられていたようです。

菊間遺跡群銅釧上

菊間遺跡群銅釧下

菊間遺跡群東関山古墳地区出土銅釧

 出土した4点のうち一つは、割れてしまった銅釧に穴を開け、紐で結んで補修した痕跡がありました(左上)。青銅という珍しい素材の装身具が貴重品として扱われていたことを示すとともに、装着し続けることに呪術的な意味合いがあったことを想像させます。
 土坑墓の中には、青銅の錆で緑青色に染まった骨も出土しました。通常、骨は長い年月をかけて土に帰りますが、銅釧が触れていた部分の腕の骨は、銅の成分で包まれていたために分解を免れたと考えられます。また、銅釧の内側には、葬られた人の衣服と見られる布の痕跡も残存しています。
 市内ではほかに、国分寺台遺跡群の御林跡遺跡において、同じような5連の帯状円環型銅釧が2基の墓から出土していますが、全体的にはごく一部の墓から発見される程度ですので、銅釧は、限られた人物の持ち物だったようです。

 このような銅釧が市原にもたらされたのは弥生時代後期で、東海西部・北陸南西部などの外来系土器が出土するようになる弥生時代終末期の前段階にあたります。他地域との広域交流が活発化する前夜に菊間遺跡群や御林跡遺跡の住人が貴重な装身具を入手できた背景には、いったいどのような社会動向があったのでしょうか。

参考文献
(財)市原市文化財センター 2004「菊間遺跡群・東関山古墳」『市原市文化財センター年報 平成13・14年度』
(財)市原市文化財センター 2004『市原市辺田古墳群・御林跡遺跡』市原市文化財センター調査報告書第89集
薬師如来坐像 姉崎神社