
私も歩んだ?足下に眠る平安の夢路
東海道のさいはて、坂東の道
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| 菅原孝標の女 | なるみ |
『更級日記』では市原から京まで3ヶ月もかけたんですよ。ああ、目まいが・・・ やっぱり私は、花鳥風月を愛でながら、のんびりと車にゆられる昔ながらの旅が性に合っているようです。 え?私のころの幹線道路? もちろんありましたよ。快適な旅には、よく整備された道路が欠かせませんからね。簡単に紹介しましょう。 |
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| 平安時代、日本の行政区分は、今の「都道府県」にあたる66ヶ国に分かれていました。これらの国々は「五畿七道」(ごきしちどう)と呼ばれる8ブロックにまとめられていました。上の図を見てください。薄茶色のラインが五畿七道の境界線です。 都周辺の国々は、大化の改新で「畿内国」と定められ、平安時代には大和・山城・摂津・和泉・河内の五畿が定着しました。 これ以外の国々は、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に区分けされました。「道」と呼ばれたのは、都から放射状に整備した官道に沿ったためです。上図の赤ライン(一部青)を見てください。この道こそが当時のメインストリート、わが国の大動脈であったわけです。 さて、各国には政治の中心たる国府が置かれました。各国の年貢などは、いったん国府でとりまとめてから都に運びます。地方の人々にとって国府は中央政府の玄関口というわけです。官道は、都と日本全土66ヶ国の国府を結ぶ流通ネットワークであり、その開発と整備は、古くから政府の重要課題として取り組まれてきました。 ちなみに関東地方は、上野(群馬)・下野(栃木)が東山道、相模(神奈川)・武蔵(東京・埼玉)・下総・上総・安房(千葉)・常陸(茨城)が東海道に入ります。上総国府にやってきた孝標の女一行は、東海道、上図の青ラインを往復したわけです。 |
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ごめんなさい、脱線しましたね。 |
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平安後期の南関東![]() |
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上の図を見てください。上総国のオレンジ部分が市原郡で、上総国府と国分寺があったのよ。父が上総介(国の長官)だった関係から、家族ぐるみで4年間ごやっかいになりました。 |
東海道の本道は、武蔵国から常陸国に延びていきます。上総・安房国を結ぶ経路は、本道からの分岐道です。これを仮に上総における「メインルート」と呼ぶことにします。 上図の赤丸が国府です。千葉県は上総・下総・安房の3ヶ国を占めますので、国府も3ヶ所ありました。当然国分寺も3つあります。上総国府は矢印の示すあたりです。 もっと昔の奈良時代、上総国から都に上るには、直接東京湾を横断し相模国の三浦半島に上陸する海上ルートが取られていました。しかし宝亀2年(771)以降、武蔵国が東山道から東海道に編入されると、東京湾岸に沿って下総・武蔵を通り、相模湾岸に抜ける陸上コースに変わります。上の図がそのコースで、孝標の女も通りました。 |
| これらの古道は正確な位置がわかっておらず、そのルートも地域によっては幾つかの候補があり、断定できない状況です。本コラムは今後の継続分を含め、(財)千葉県文化財センター 1994 『研究連絡誌』第41号 所収 大谷論文および『千葉県の歴史』通史編 古代2 の記述を参考に作成するものです(参考文献参照)。 | |