ここまでわかった市原の遺跡 第4回遺跡発表会 邪馬台国時代のいちはら を開催しました |
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| 受付の様子 |
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| 発表会場 |
午前の部では、当センター職員による事例発表を3本行いました。 1「邪馬台国時代のいちはら」(大村直所長) はじめに今回テーマの時代背景について概要をお話ししました。 まず、邪馬台国時代が西暦何年ぐらいにあたるのかについて触れました。中国史書によると、倭の女王卑弥呼(ひみこ)は西暦3世紀前半には活躍していたことが分かっており、この時期には邪馬台国があったことになります。現在の研究では、おおむね2世紀後半から3世紀前半が邪馬台国時代と捉えられています。 当時、つまり弥生古墳移行期の市原の遺跡には、突如として北陸地方南西部(石川県・福井県)や東海地方西部(岐阜県・愛知県・三重県)の特徴を示す遺構・遺物が見つかるようになります。この現象は大きな時代のうねりが房総の地にも及んでいたことを反映するのでしょう。また、この動向が古墳のさきがけである神門(ごうど)古墳群の築造される背景になったようです。国分寺台地区西部の遺跡群はこの邪馬台国時代に発達したのが大きな特徴と言えます。 続く古墳時代前期後半から中期にかけての時期は、国分寺台から大きな古墳は減り、村田川下流域の菊間古墳群周辺と、養老川下流域の姉崎古墳群周辺に集中する動向が見られます。特に姉崎古墳群は100mを超える前期大型前方後円墳が含まれる、南関東でも屈指の古墳群であり注目に値します。 |
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| 邪馬台国時代のいちはら |
2「中台遺跡の祭殿建物について」(鶴岡英一副主査) 続いて、最近確認された上総国分僧寺下層の特殊な掘立柱建物跡と区画をクローズアップし、神門古墳群を築造した集団の動向を探りました。 中台遺跡で検出された独立棟持柱(どくりつむなもちばしら)構造の建物は、数少ない弥生絵画に題材として選ばれることからも、当時、特別視される存在だったと考えられます。現代に伝わる建築物では、伊勢神宮外宮(げくう)の社殿に同様の形式が採用されています。 弥生古墳移行期の静岡県浜松市の大平遺跡では、建物跡を伴う複数の四角い区域があり、そこには内部に独立棟持柱建物の配置された区域が含まれます。これと対照すると、中台遺跡の事例も同様に、集落内に設けられた特別な区画の一部に当たり、居住区とは区別された「まつりごと」に関係する可能性が考えられます。すぐ近くに連続して築造されている神門古墳群と、方形区画内の独立棟持柱建物の存在は一連の現象と思われ、当時の景観を想定する際に無視できないものです。 |
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| 中台遺跡の祭殿建物について |
3「諏訪台古墳群から見る古墳の出現と終焉」(北見一弘副主査) 午前最後には、国分寺台地区南西部に広がる天神台遺跡・諏訪台古墳群の整理作業の成果を報告しました。 前回YOUホールで開催した第3回遺跡発表会では縄文時代について報告しましたが、同じ土地の上層は弥生時代以降も連綿と利用されており、特に古墳時代以降に大規模な古墳群が築造されます。発表では、弥生時代中期後半の方形周溝墓群から始まる墳墓群の展開過程を示しました。弥生古墳移行期から古墳前期には纒向型と見られる円形墳墓、東海系と見られる前方後方形の墳墓の両方が築造されたようです。 |
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| 諏訪台古墳群から見る古墳の出現と終焉 |
午後の部では、弥生古墳移行期の著名な研究者お二人に講演いただきました。 まず、「2・3世紀、東京湾に到達した東海系文化と狗奴国(くなこく)幻想」と題して、赤塚次郎先生(NPO法人古代邇波の里・文化遺産ネットワーク理事長)から、弥生古墳移行期の社会動向をテーマに、地域性を切り口としたお話をいただきました。 2世紀前半は洪水が多発するなど自然環境に大きな変動があり、社会動向もその影響を受けていることが示されました。前方後方墳をシンボルとする地域が東日本に広がるのは、前方後円墳の起源する畿内地域以西の社会、「邪馬台国」とは異なる「狗奴国」の領域であったことを反映しているとのお話でした。また、濃尾地域には前方後方形だけではなく、3世紀以前に円形の墓が作られており、ある段階で東日本へそれらが伝わった可能性も指摘しました。 伝承や現代の食文化など、時代を超えた地域性や文化の伝わるルートにも触れた大変興味深いお話でした。 |
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| 赤塚次郎先生 |
続いて、寺澤薫先生(纒向学研究センター センター長)から、「倭国の新生と東国−纒向(まきむく)王権誕生の意義−」と題して、邪馬台国畿内説に基づく視点からの講演をいただきました。 中国史書の記述と舶載(はくさい)文物を年代の定点とし、北部九州と畿内の出土品の様相の変化を比較しました。ステータスシンボルの一種であった青銅鏡に着目すると、弥生後期には重心が北部九州にあったものが、弥生古墳移行期以後には東方へ移るという状況が見出され、政治権力の勢力分布の変動が読み取れるとのお話でした。 北部九州糸島市周辺のイト国を中心とする倭国が、纒向遺跡を中心とする倭国へと変化したのが、弥生古墳移行期の動向であり、明確な前方後円墳の助走段階である纒向型前方後円墳の成立過程と分布域の拡大は、当時の社会変動を反映するとのお話でした。市原の神門古墳群は纒向型前方後円墳であり、倭国の領域拡大に関係する可能性が指摘されました。 纒向王権として倭国が「新生」したこと、そして、纒向遺跡は大和国一国のような「邪馬台国」の中心地ではなく、より広域の新生倭国の中心地であることに大きな意味があるという内容で、大変興味深い講演でした。 |
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| 寺澤薫先生 |
お二人の講演内容はそれぞれ異なる視点から、市原、特に国分寺台地区周辺における弥生古墳移行期の特異性を浮き彫りにしたように思います。対外交流が広域で活発化するこの時期に、北陸南西部や東海西部の移住者の存在が想定でき、纒向型前方後円墳が築造されるなど、東日本でも特に目覚ましい展開を示すのは、市原周辺が政治的、社会的、地理的に重要な地域だったことを反映しているのかもしれません。 |
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| 遺跡発表会特別展示(埋蔵文化財調査センターエントランスホール) |
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| 指定文化財特別展示(埋蔵文化財調査センター2階展示室) |
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